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【三国志を抱く】第一人者に聞く、『三国志』って奥が深い!(その3)

2013-08-02 12:01 投稿

『三国志を抱く』を語る渡邉義浩教授の特別講義 ~第3回 三国時代を動かしたのはだれ? 編

 

最終回では三国志の超有名人、諸葛亮と曹操に注目。ふたりに共通していたのは、後漢王朝が崩壊して分裂してしまった中国を、ふたたび統一するという壮大な夢だった。そう聞くと、「目標が同じなら、諸葛亮はなぜ曹操に協力しなかったの?」と疑問に思われた方もいるはず。じつは同じ夢を見ているようで、諸葛亮と曹操のあいだには互いに相容れない違いがあったのだ。

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渡邉義浩氏。早稲田大学文学学術院教授、三国志学会事務局長

 

●諸葛亮が目指した理想とは?

──前回、関羽の話題になりましたけど、先生もお好きなんですか?

渡邉 「この人がいい」というのはあんまりないんですよね……とにかく、諸葛亮がいちばんだなって(笑)。他はまあ、どうでもいいというか(笑)。

──かなり熱狂的な諸葛亮ファンですね(笑)。どこが魅力なんでしょうか。

渡邉 諸葛亮は、漢(紀元前206~8年、25~220年)に殉じた人物なんです。漢という400年のあいだにできあがった国の復興に人生をかけたんですね。漢という国は、このあとの中国の“古典”になります。つまり、ヨーロッパ世界におけるギリシャやローマのような存在になっていくわけです。もう漢という国は残っていないんですけど、中国の人たちは自分たちを漢の国の子孫だということで、いまでも「漢民族だ」と言いますよね。

──いまでも漢という国の存在は大きいんですね。

渡邉 漢という、自分たちの古典が滅びようとしていたときに、それを守り続けようとしたのが諸葛亮でした。僕だけじゃなくて、朱子学を作った朱子(朱熹(しゅき))も、ものすごい諸葛亮マニアだったんですよ(笑)。朱子が生きた時代(1130~1200年)は、中国が北方のモンゴルからガンガン攻められていた頃なので、漢民族は戦わなければなりませんでした。ただ、朱子は儒者だから、戦いたくても戦えないわけですよ。でも、諸葛亮は同じ儒者なのに、軍を率いて、宰相として戦ったんですよね。そんな諸葛亮の姿に朱子はものすごく入れ込んだんです。わたしを含め、これまで諸葛亮を支えてきた人々の思いは、みな同じだと思いますけどね。だから、曹操が好きだなんてうわっつらな発言は許せません(笑)。

──そんなこと言っちゃっていいんですか?(笑)

渡邉 大丈夫です! もう、戦いだと思っていますから(笑)。

──諸葛亮が仕えた劉備は、たしか漢室の末裔なんですよね?

渡邉 ぜんぜん関係ないですよ。劉備は漢の中山靖王・劉勝の子孫だと言っているんですけど、その中山靖王劉勝って、男の子どもが120人いるんですよ。

──な、なんだってー!

渡邉 もう、オットセイみたいなやつで(笑)。劉勝の子どもたち世代から、(劉備が生まれた)後漢末までだと、子孫が30万人以上いる計算になるんですよ。だから、後漢の帝室としては、たんに姓がいっしょという程度です。一族でもなんでもないし。

──ただ、諸葛亮にとっては劉備の中に尊敬できるところがあったんじゃないですか?

渡邉 選択肢として、自分が用いられるのが劉備しかいなかったと思うんですよね。『三国志演義』のイメージだと、劉備はあまり戦わないように思われますけど、諸葛亮は劉備の軍人としての能力をけっこう評価しています。それから、劉備のもとには関羽とか張飛といった勇将はいましたけど、知識人層がまったく欠けていたので、諸葛亮にとっては思うとおりに動かしやすかったのではないかと。それから、“徳”っていいますけど、劉備にはそれを可能にするだけの人望がありました。諸葛亮の思いをそのまま受け入れて、自分の思いにしてくれたんですね。だから、諸葛亮は劉備に仕えたんだと思います。

▲『三国志を抱く』の諸葛亮孔明。

 

●気候の変化が歴史を大きく動かした!?

──三国時代って、そういった人の生きざまが如実に現われた時代なんですね。

渡邉 社会の変革期なんですね。中国という国の形を決めるときだったんです。このころ、地球全体がいまよりも2、3度寒かったので、北方民族が南に下りていくんです。ヨーロッパではゲルマン民族の大移動が起こって、ローマ帝国が崩壊して別々の国になっていきました。

──中国でも同じようなことが起こっていたんですか?

渡邉 中国も全体的に南へ下がっていました。もともと漢には13の州があったんですけど、南側の呉が持っている州はふたつ、蜀が持っている州はひとつしかないんです。南の長江流域には3つの州しかなくて、あとの10州はみんな北の魏が持つ黄河流域にありました。

──なぜ州の数がそんなに違うんですか?

渡邉 土地が広いのに州がひとつしかないというのは、日本の北海道といっしょで、要するに人が住んでいないわけですよ。それが北(魏)と南(呉、蜀)で対抗できたのは、気候が寒くなったので北の住人が南へ逃げてきて、江南が発展したからです。そうなると社会システムも大きく変わって、自立できていくんですよ。

──この時代だったから、天下三分ができたんですね。

渡邉 じつは天下三分を目指していたのは呉の魯粛(ろしゅく)で、諸葛亮にとっては手段に過ぎなかったんです。とりあえず天下を三分して、とにかく漢によって天下を統一するんだ、と。だから、三国時代に入ったあとも、諸葛亮は戦いをやめませんでした。

──天下三分が目的だったら、それ以上、戦う理由がないですもんね。

渡邉 さきほど「蜀はひとつの州しか持っていない」と言いましたけど、蜀があった現在の四川省って、日本より領土が広いですし、重慶市も含めれば四川省の人口は日本に匹敵します(笑)。だから、四川省だけでひとつの国になっていてもぜんぜん不思議ではないわけです。でも中国がいくつもの国に分かれていた時代って、三国時代と五代十国時代(907~960年)しかないんです。

──あれだけ広大な土地があって、基本的にずっとひとつの国でいられたのはすごいかも。

渡邉 歴史の「もし」は非常にくだらないたとえですけれど、もし三国時代に曹操が居なければ、中国もヨーロッパのような分権国家になった可能性が高いです。中国を再統一するためのシステムを、曹操が作っていったんですね。

──曹操は再統一のためにどんなことをしたんですか?

渡邉 国家が土地を開墾して、そこに農民を呼んで、来た人に種もみを渡して、牛を貸して、耕させるかわりに租(そ)と呼ばれる税を取る。そのようなシステムを曹操が作り上げているんですね。それが、租税制度の“租庸調”や、農民に土地をあげるかわりに租(そ)や調と呼ばれる税を取る“均田制”になっていきました。均田制は、日本に入って“班田収授の法”と呼ばれていますね。

──それだけ大きな変革だったと?

渡邉 曹操が作り上げたシステムは、漢の支配のしかたとまったく異なる、新しく国を統一するやりかただったんです。

──じゃあ、中国を統一したといっても、漢の復興を目指した諸葛亮の理想とは正反対ですね

渡邉 だから、ぼくが諸葛亮を好きなのは動かないんですけど(笑)、歴史的に重要なのは曹操なんです。「だれが好きですか?」ではなく、「だれが三国時代でいちばん重要ですか?」と質問されたら、まちがいなく「曹操です」と答えますね。ぼくは大嫌いですけど(笑)。あんなに強くなくてもいいと思います。

 

講義のまとめ

 

・諸葛亮は漢の復興を目指していた
・天下三分は諸葛亮にとっては目的ではなく手段だった
・曹操は新しい国の統一システムを作り上げた

蜀の諸葛亮と、魏の曹操。中国の再統一を目指したふたりだが、諸葛亮にとってのゴールは漢の復興で、曹操にとってのゴールは新しい統一国家だったというところがなんとも対照的だと思った。

ちなみに一般向けの三国志本も数多く執筆している渡邉先生に、「三国時代の流れがわかる入門書は?」と聞いたところ、『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)がおすすめとのこと。『三国志演義』と正史の違いについても解説しているそうなので、興味がある方は一読されてみては?

(取材・構成:ライター/ムライサトシ)

 

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『三国志を抱く』とは?
ウェブブラウザだけでなく、スマートフォンやタブレットなど、多様なプラットフォームで同一のゲームをプレイすることができる、ネクソン初のクロスプラットフォーム型シミュレーションRPG。ゲームはすべて連動し、いつでも、どこでも、好きなときにゲームの続きをプレイすることができる。三国志演義のストーリーを背景とした本格的な歴史戦略MMO RPGとなっており、登場する背景や人物、武器や服飾などの細部まで表現。プレイヤーは、三国志に登場する約200名の武将たちを指揮し、各武将固有の戦略(スキル)を通じて戦略的な戦闘を楽しめる。
※『三国志を抱く』の公式サイトはこちら

 

三国志を抱く

メーカー
ネクソン
配信日
配信中
価格
無料(アイテム課金あり)

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