モンスターたちの{起源/オリジン}第7回:吸血鬼の起源は、じつはドラゴンで英雄だった!?
2018-07-13 12:00 投稿
吸血鬼ドラキュラのモデルは実在の英雄
吸血鬼という存在もまた、ゲームでおなじみのモンスターだが! どうにも勘違いをしている人は意外と多いようだ。吸血鬼=ドラキュラだと思っている人は一定数いるようだが、じつはこれ、誤りである。
ドラキュラというのは、ある特定の吸血鬼の名前であって、吸血鬼すべてがドラキュラというわけではないのだ。では、ドラキュラとはいったいどのような存在なのだろうか? 今回はその起源を紐解いて見てみよう。
そもそもドラキュラとはなにか?
ドラキュラ、それは19世紀にイギリスで書かれた大衆演劇『ドラキュラ』に登場する吸血鬼の名前である。そしてご存知の方もいるだろう。これのモデルとなった人物は、15世紀の東ヨーロッパにあった小国ワラキア公国を守ったヴラド三世である。
ヴラド三世は、串刺し公という名前でも知られる存在。この名前からも残虐非道のサイコパスというイメージが強い彼だが、実際には国を守った英雄なのである。
ヴラドが統治する小国ワラキア公国は、当時世界有数の大国であったオスマン・トルコ帝国の脅威に晒されており、実際に侵略も受けていた。
その侵略の規模は凄まじく、なんとその兵力10数万。オスマン・トルコ帝国はこの大軍勢でもってワラキアに押し寄せていたのである。しかしヴラドはこれを撃退しているのだが。そのときのワラキアの兵力、わずか3万。
4倍という兵力差をものともせず撃退せしめたのである。ちなみにこの勝利は単なる勝利とはわけが違う。ワラキア小国はヨーロッパの東端にある小国。オスマン・トルコ帝国がここを落としていたら、おそらくその魔の手はヨーロッパにもかかっていた可能性があるのだ。
すごい、すごいぞヴラド公!
しかもヴラドが上げた戦果はこれだけではない。7000にも足らない騎兵でオスマン・トルコ帝国軍の拠点を夜襲し、メフメト2世の陣幕にまで迫ったのだ。これは、桶狭間で今川義元を討ち取った若き織田信長に通じるものがある。
どうしても残虐な暴君というイメージが拭えないヴラドだが、武将、騎士としてはかなり優秀だったのかもしれない。
串刺し公としてのヴラド
さて、そんな英雄であったはずのヴラドが邪悪な吸血鬼にされてしまった理由は、皆さんご存知の通り、彼が行った苛烈な統治による。
ヴラドが統治するワラキア公国は、ヨーロッパの東の果て、現在のルーマニアの山奥にある小国であった。そんな中、父と兄の戦死によって大公となったヴラドだが、当時まだ若く、傀儡の大公として見られていたヴラドには敵が多く、とくに地方領主たちは反抗的な態度を示したという。
そうした背景があり、ブラドが覚醒する。反抗的な地方領主たちや移民、犯罪者などを次々と串刺し刑に処し、支配体制を確立していったのだ。
だがしかし! これが串刺し公という呼び名の生まれとなったわけではない。まぁ確かにこの時点で串刺し公の片鱗は感じられるが、この時点ではまだ産声を上げた段階のようなもの。
散々人を串刺しにしておいて「片鱗を見せただけ」というのも恐ろしい話だが、事実なので仕方がない。というのも、当時串刺し刑というものは、重罪人に適用される処刑方法としては決して珍しいものではなかったのである。
きっと当時の世間からしてみれば、「あぁはいはい、串刺しね」、「どうする? とりあえず一本刺しとく?」みたいなノリだったのだろう。
ヴラドが串刺し公としてその名を馳せたのは、オスマン・トルコ帝国との戦争以降である。
オスマン・トルコ帝国がヨーロッパ侵攻を開始した際、ヴラド率いるワラキア軍がこれを見事に撃退せしめているのは前述の通り。
この戦争の中で、ヴラドはオスマン・トルコ帝国の要塞をひとつ陥落させ、捉えた2万人以上の兵士を串刺しにしたのである。しかもそれだけにとどまらず、串刺しにした死体を、トルコ軍が進軍してくるルートに並べたのだそうだ……。
2万人以上の串刺しとなった兵士が、街道の両側に林立。歓迎のフラワーロードならぬ、串刺しロード。1メートル間隔で街道の両サイドに串刺しオブジェをあしらったとすると、その串刺しロードは約1万メートル続くわけで……。
こわっ! この異様な風景にはさすがのオスマン・トルコ帝国も恐怖し、ヴラドはカジクル・ベイ(串刺し公)と呼ばれるようになる。そうしていつしかこの異名がワラキアまで届き、カジクル・ベイ(串刺し公)はワラキアの言葉に言い換えられ“ツェペシュ”となったのだそうだ。
最近のスマートフォンゲームには、ヴラド・ツェペシュというキャラクターが出てくるものもあるようだが、これはつまり“串刺し公・ヴラド”という異名であり、本名ではないのである。
先の話では、ヴラドは英雄だったということになったが、やはりこの2万人串刺しロードというインパクトが強すぎる。そりゃ串刺し大好きサイコパスに思われてもしょうがない……かも?
ドラキュラ=竜騎士の息子
ヴラドの名前であるヴラド・ツェペシュが異名だというのは上で説明した通り。では、ドラキュラのモデルとなったヴラドの本名とは? そしてドラキュラの語源はどこにあるのか? ここではそれを掘り下げていこう。
まずヴラドは、正式にはヴラド三世と呼ばれるが、しばしばヴラド・ドラクレア(ドラキュラ)と呼ばれ、自分でもそのようにサインしていた。つまり、ドラキュラの語源はヴラドが実際に使っていた名前、肩書そのものだったのである。
さっそく答えが出てしまったが、このドラクレアという言葉について、ちょっとおもしろい話があるので、そこを見てみよう。
この“ドラキュラ(ドラクレア)”という言葉は、ドラクル(ドラゴン)の子ども、小竜という意味を持つ。これは、ヴラドの父親がローマ教皇に従属した際、竜騎士の称号を与えられドラクルと呼ばれていたことに起因する。
ヴラドは、ドラクルの子息であるということからドラキュラと呼ばれることになったのだ。
こう考えてみるとおもしろいものである。ヴラド・ドラキュラはいまでこそ吸血鬼の代名詞的な存在となっているが、なんと生前は竜の紋章を掲げるキリスト教の騎士だったのである。
キリスト教の立派な騎士が、没後キリスト教の敵とされる吸血鬼の代名詞になってしまうとは、なんとも皮肉なものである。
しかし、この悲劇ともとれる話にも、どうやら何が裏があるという説もある。
それは、ワラキア公国を経済的に支配しようとしていたドイツ系商人たちが、仲間を処刑された逆恨みとして、ヴラドを狂った暴君として喧伝したという、陰謀にも似た説だ。
商人たちは、串刺しを描いたチラシをヨーロッパ中にばら撒き、ヴラドのイメージを凶悪な暴君に貶めたというのである。
そうして、そのイメージは払拭されることのないままヨーロッパ中を駆け巡り、いつしか時が経つに連れ、それはひとつの伝説になり、吸血鬼としてのドラキュラが誕生。
ドラキュラはその後吸血鬼の代名詞として根付き、いまも語り継がれ、さまざまなゲームに当たり前のように登場するようになったのだ。
竜の騎士の子として生まれ、英雄となったものの、没後には吸血鬼、または苛烈な処刑を好んだ暴君として有名になってしまったヴラド。そんな悲劇をいまも辿るヴラドだが、現在ではその誤解も解かれはじめ、彼の地元では国を守った英雄として認められているという。
こう改めて振り返ってみると、本当に小説みたいな人生(?)だ。このストーリーをもとにしたファンタジー小説でも一本書けそうな気がする。
おまけの4コマ
4コマ作:海野なまこ
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文:朱鷺田祐介
【朱鷺田祐介(ときた・ゆうすけ)】
TRPGデザイナー。代表作『深淵第二版』、『クトゥルフ神話TRPG比叡山炎上』。翻訳に『エクリプス・フェイズ』、『シャドウラン20th AnniversaryEdition』。2004年『クトゥルフ神話ガイドブック』より『クトゥルフ神話』の紹介を始め、『クトゥルフ神話超入門』などを担当し、ここ数年は毎年、ラヴクラフト聖誕祭(8月20日)および邪神忌(3月15日)に合わせたイベントを森瀬繚氏と共同開催している。
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